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発達障害のことが知りたい!

中学に入学して不登校になり、発達障害と診断されたmimiと家族の記録。

自立のかたち


就職活動中の学生や若者の自殺が増えてると知り、同じ年頃の子を持つ親として胸が痛い。

考えられないぐらいの数の会社にエントリーし、気が遠くなるぐらいの数の会社から不採用の通知をもらい続けていると、自分がだんだんできない人間のように思えてくるものらしい。

mimiが不登校になって、引きこもり状態になっていたころ、ほんとに人間ここまで自己否定できるものかとびっくりした経験を持つわたしとしては、とても他人事とは思えない。

わたしもかつて「甘い親」とか「過保護」とか言われたくなくて、ずいぶんよけいなことを言い続けていた時期があった。今思うと、体罰と同じで何の意味もなかったとつくづく思うのだけれど、当時のわたしも一生懸命で、ほかに方法を知らなかった。
世間知らずは親の自分だったと反省している。

mimiが学校に行けなくなったとき、口では「無理に行かなくていい」と言いながら、
一般社会からこぼれていくようなどうしようもない不安感でいっぱいになった。
もう誰も助けにならないし、助けてくれる人はいないと思った。

だけど、実際はまったくそんなことはなかったし、
心を閉ざしていたのは、むしろ自分の方だった。

どうかもうほかに道がないと思わないでほしい。
何をやってもうまくいかないと思わないようにしたい。

別の方法がいくらでもあるし、つらいところからは逃げてもかまわないと思う。
誰でもがんばりたいところではがんばれる。
力になってくれる人もかならずいる。

今なら通勤しなくても、引きこもっていても、たとえばネットにつながっているパソコンがあったら、
社会とつながることもできるし、勉強も仕事もできる。

そういう在宅社会人がもっと増えればいいのにと思う。
いろんな自立の仕方、はたらき方があったほうがみんな生きやすいし、もっと楽しいと思う。

できることから始めたい。
そうしたらできることも結構あることに気がつくよ。

たとえばネットでできること詳細"RUREAルレア"はこちら>>

久しぶりの更新です

久しぶりの更新です。

mimiは相変わらず定期的に精神科に通院しながら、通信制の高校で何とか単位をとっていってます。



この春は、mimiの同級生たちは高校を卒業し、それぞれの道へ旅立っていきました。
そんなことも落ち着いて受け止められているようです。

正直、家族も本人もこうした特殊な状態に慣れたという感じでしょうか。
家族も本人もmimiの特質を受けとめることができるようになったのが大きいですね。
どうすればいいのかは試行錯誤するしかないこともわかりましたし。

世の中もmimiのようなちょっとたいへんな人たちの存在に気づいてきたことも感じています。
以前は発達障害と診断してもらわなければほかの人に説明のしようがなかったところがありましたけれど、
今は診断がなくてもだいじょうぶなように思います。

もう、みんなと同じようにさせなくてはと躍起になることもないし、
本人もやらなくちゃと必要以上に苦しまなくなったんですね。
年齢のせいもあるかもしれません。

mimiは高校卒業まであと2年かかります。
進学したいそうなので、徐々に勉強の準備をしていってるところです。

受験も壁ですが、そのあとの学校生活もどの程度できるか、
まだまだ超えないといけないものがいっぱいです。
それでもついこの前と比べたら、ずいぶん成長したと思ってうれしくなります。

ああ、わたしはなんにもできなかったけど、子どもって、
勝手に大きくなってくれるもんだとつくづくありがたく思います。
それに、たくさんの人たちに助けていただきました。
世の中捨てたものじゃないと何度も思いました。

何かすることを極端なぐらい警戒して慎重だった主治医も、このところまったく違ってきてます。
失敗も経験のうちと、できることややってみたいことは、どんどんやってみてもいいと言います。
一つステップアップしたのかもしれません。

それでもいろいろ壁だらけです。

たまにある出かける予定はこなせるようになりましたし、
一人で出かけることもできるようになりました。

人と接することはだいじょうぶだとも言ってます。

ただ、睡眠時間や体調はまだまだ不安定で、毎日同じペースで通学や仕事ができるようになるかは
わかりません。

mimiのような人が自立する道はあるだろうか?

最近はそんなことを考えてます。
いろんな方法が見つかるといいな……。

『発達障害と呼ばないで』

発達障害と呼ばないで (幻冬舎新書)

発達障害と呼ばないで (幻冬舎新書)


mimiのような軽度というか微妙な発達障害といわれている人たちのことについて書かれている最新の本です。
過剰な診断は、利益より弊害のほうが大きいのではないかという問題提起がなされています。
微妙な発達障害については、症状や対応について、あいまいで役に立たない情報がほとんどだった中では待望の本だと思います。

ただ、わたしのまわりには、診断したがらないというか、診断を避ける医師の方が多い感じでしたので、そんなに何でもかんでも発達障害と診断する風潮があったとは驚きました。
地方は発達障害の専門科どころか、精神科医がわずかしかいないので、診断に慎重になっているというよりは、よくわからないから診断できないという心もとない感じです。
一方で、いっしょに悩んで考えてくれる人との出あいもありました。


現実には不適応を起こしているのに、「なんでもない」とか、「大したことない」みたいな言い方をされて傷つくことが多かったので、mimiが「非言語性発達障害」と聞いたこともないような診断名をつけられたとき、
わたしはショックとともに少しほっとしたのをおぼえています。
傷つくようなことを言う人たちは、ただ無知なだけで、その後親身になって力になってくれる人もいました。


わたしの場合、診断名がmimiの独自性や生きづらさを理解するきっかけになったのは確かです。

ただ、障害か個性かというところでは、いつも悩んでいたので、この本を読んで、mimiは非定型発達なんだと納得できました。

こんなふうに、少しずつ少しずつ、いろんな人がいっしょに生きていることをお互いに知っていけるといいなと思います。

mimiは、体育のスクーリング、自然史同好会の旅行、ピアノ発表会と忙しくこの春と夏を過ごしました。
ふつうの高校生のように、将来の進路について少しずつ考えることができるようになってきて、目を見張るような進歩です。

主治医には、相変わらず慎重に考えるようくぎをさされています。

気を使うところが違う……


人間関係が苦手といわれている発達障害ですが、mimiの非言語性学習障害は、おしゃべりで愛想のいい人が多いと言われています。mimiも一見にこにこしていてそこそこ社交的に見えたりします。でも、実はとてもストレスを感じていると言います。

 mimi本人は、他人にとっても気を使っているつもりでいますが、一般的な気の使いようとはちょっと違うということがわかってきました。
 相手に変に思われないようにしようというところでは本当に気を使っています。それだけを見ていると、気配りのできる人のように思いますが、実は相手がどんなところでどうして変に思うのかというところがまったくわかっていないので、ただやみくもにびくびくしているだけだったりするんです。

 mimiは、愛想がよくそこそこ話もする方なのでわかりにくいのですが、実は他人にあまり興味がなく関心が薄いので、他人の行動や思考が予想できないみたいなのです。よくいえば、やじ馬根性が乏しいんです。他の人がどんなことに興味があって、どんなことを知りたがっているか、といったようなことは、まったくどうでもいいみたいなんです。
 たとえば友だちが誰のことを好きで、誰とつきあっているかとか、お小遣いはどれぐらいもらっているかとかいったようなことにもまったく興味を示さず詮索もしないので、ある意味お行儀がいいんですが、多くの人がほんとのところは興味しんしんなことに無関心過ぎるというのは、人の本音とか本心にも無関心ということにもなり、その結果、人の心の動きが想像できないということになるみたいなんです。で、何でも「わからない」ですませてしまうのです。

 興味のないことに「もっと関心を持って」とか「空気を読め」なんていうのはちょっと酷なので言いませんが、もう少しほかの人の目を意識できるようになると、だいたいまわりの人がどんなことを考えているのかがわかってきて、むやみにおそれたり気を使い過ぎて疲れることも減るだろうになあと思うのです。でも、どんなふうに説明すればいいのか難しい……。
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思いがけない場面で食い違う非言語性発達障害


4月15日、通信高校の新学期が始まりました。新しい教科書を受け取る日です。数日前からmimiは緊張のせいで体調は最悪です。不安で眠れず、昼間は起き上がることができません。
まあ、それでも当日は出席したところが以前とは違います。帰宅後はほっとするどころか、これから始まる学校生活を思ってか、どうしようもなく不安なようす。疲労でぐったりです。ろくに話もしません。

このところ、ほとんどmimiの生活に口出しすることがなかったつもりでいました。ところが、mimiはいつもわたしの言うことがころころ変わるので、どうすればいいのか、どうしてほしいのかわからないといったようなことを言い出しました。こうしたやりとりは、これまで何回もあったことでした。ここ最近は、ずいぶん分かり合えてきたと思っていたのに、またしても同じことを言われてびっくりしました。

とくに体調に関して、「寝なさい」と言ったかと思うと、「少しは運動した方がいいのではないか」と言って見たり、「休みなさい」と言うこともあって、どんな違いがあって、わたしの言うことがこうもコロコロ変わるのかさっぱりわからないと言うのです。
mimiはコワイぐらいわたしの言った言葉を正確に覚えています。確かにわたしはmimiの言うようにいろんなことを言いました。mimiはそのときの状況はあまり覚えていません。たぶん、わたしはそのときのmimiのようすを見て、いろんなことを言ったと思います。理由もそのつどくどいくらい説明しているつもりでした。その瞬間はmimiも納得していることもあったように思います。でも、mimiには、どうしてそんなにいろんな違うことを言われるのか、結局よくわかっていなくて混乱させただけだったようでした。

mimiは具体的で正確なことは得意だけれど、言葉と状況がわたしのようには結びついていないことをあらためて思い知りました。いい加減とか適当とかその場の状況に合わせてといったあいまいなことは、どうも不安で苦手なようです。気温が15℃より低ければ上着を着るとか、夕方16時までに起きられなかったときはピアノの練習は休むというように、明確な基準がないと決められないみたいです。いい加減のかたまりみたいなわたしには、mimiのように基準を作るほうがたいへんです。でも、mimiはそうだったなあと思い出しました。
 
mimiの特質について、おおよそのことはわかっていたつもりだったけれど、具体的な生活の場面でどんなふうにあらわれてくるのかということについては、まだまだわかっていないことがいっぱいです。ついつい自分のいい加減で大ざっぱな調子で接してしまうので、気づかないところでちぐはぐになってしまっているようです。
身近にいるわたしでさえこんな感じなので、外の世界はmimiにとって、さぞ疲れることだろうと思います。

「どうすればいいの?」と悩みを打ち明けられたら

 

ひきこもりの家族を抱えているご家庭の悩みをよく耳にします。一歩も外に出ないわけではなく、コンビニやDVDのレンタルショップなんかには出かけて、クレジットカードで買い物をするというパターンの人もいるようです。
 mimiも一時ひきこもり状態になりました。わたしたち家族とも顔を合わせたがらなくなり、途方に暮れました。このままどうなってしまうのか不安で仕方なかったです。

 本人もつらいのでしょうが、家族もつらいです。わたしも自分を責めました。何が悪かったのかわからないけれど、自分の言動がすべて悪かったように思ってきます。周囲からもいろんなことを言われます。アドバイスの言葉が全部自分を責めているように思います。どこにも逃げ場がありませんでした。いくら反省したって目の前の子どもは何も変わらないままどうすることもできませんでした。

 味方になってほしかったんです。「どうすればいいの!」と叫んでいても、正しい答えなんかそんなに簡単に見つからないことはわかっていました。それでもできることは何でもやったし、悪かったと後悔ばかりしてるんです。だからそばにいて「がんばったね。つらいね。」って言ってくれる人が一人でもいてくれたらどんなに心強いかわかりません。

 どうすればいいかなんて、その子の事情や状況で簡単に判断できることではありません。「甘えている」とか「甘やかしている」と言うのは簡単ですが、そのことを受けとめて動き出すことは容易ではありません。それはどんな人でも同じではないでしょうか。決まったマニュアルどおりにしてうまくいくなら誰も苦労しませんよね。悩みの底にいる人には、うんと甘えられるようにしたほうがいいのではないかと思っているぐらいです。

 問題を抱えている家族に対して、世間の目がほんの少し寛容になったらいいのになあと思います。偏見や差別をしない人間なんていません。だけど、喰わず嫌いではありませんが、よく知らなかったことが原因でへんな先入観を持ってしまっていることも案外多いのではないかと思うんです。

 さいわい人間は助け合うというすばらしい能力を持ち合わせているのですから、閉鎖的になりがちな家族の問題で、もし「どうすればいいかわからない」といった助けを求められた時は、「気のきいたことをしなくては」などと気負わずに、まずはやさしくその苦労をねぎらってあげられたらと思います。

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そこそこ年長者になって思うこと


 お母さんが精神的に不安定になっているというご近所の通報を受けて相談に乗っていた家族が一家心中してしまったという痛ましい事件がありました。
 連日の気づけなかった孤独死や救えなかった虐待死のニュースに言葉にならないむなしさを感じてしまいます。
 
 家庭内の悩みや問題はなかなか社会に向かって助けを求められないものです。わたしもmimiのことで悩んでいたとき、家族のことは家族で解決しなくてはいけないような気になったり、ほかの人にはわかってもらえないような気がして周囲に相談できない時期が相当ありました。

 だけど、もちろん家族でなければできないこともあるのだけれど、家族だからかえってうまくできないこともあるんです。そこで勇気を出してやっとの思いで外に助けを求めて駆け込んだ先でたまたま心ない対応をされてしまったりしたら行き場をなくしてしまうだろうなあと思います。
 そうでなくても多くの場合、一度の話し合いで問題を理解して解決に向かうなんてことはありえません。家族以外の人がその家族の状態を知るのにはかなりの時間が必要です。警察の初動捜査ではないけれど、まずはじめに話に耳を傾ける姿勢がとっても大切だなあと思います。

 そんなえらそうなことを言っているわたしですが、自分の気づかないところで偏見や差別のせいでまともに話をきけなくなることはよくあります。あー、人間ってやだなあと思ってしまう瞬間です。
 その一方、助け合うこともちゃんと知っているのが人間です。はっと気づいたときからあらためればいいかなと思ってます。

 わたしは、mimiのことでほんとうにたくさんの人に助けてもらい救われました。正直がっかりしたこともありました。でも、失望することばかりではありませんでした。「捨てる神あれば拾う神あり」です。たまたまラッキーだったとは思っていません。だれにでも希望を捨てなければ助けてくれる人がきっとあらわれると信じてます。
 そんなこんなではじめて人は助けてもらわなければ一人では生きられないということを実感したのです。だれにも迷惑をかけないで生きることなんてできないことに気がついたのです。わたしはmimiのことがなかったら、たぶん今でもわかっていなかったと思います。親は子どもから学ぶと言いますが、わたしはmimiから実に多くのことを教えられました。

 そこそこ年長者になってしまったわたしができることは、人間はだれでも支えてもらってやっと生きていけるんだということを伝えていくことではないかと思っているところです。自立も大事です。でも、自立だって一人でできるものではないんだよ。助け合うために社会があることを忘れないでいたいね。