余裕はどこにあってどこから来るか?
病気になってはじめて病人の気持ちがわかるようになるみたいに、mimiが不登校になったり発達障害と診断されたことではじめて、わたしは社会的弱者の立場というものを実感できるようになりました。
たくさんの人の手を借りなければ生きられないところに引け目を感じてしまう弱者ですが、誰の手も借りずに一人で生きている人はいないということをみんなが自覚できたらもっと楽になるかもしれないなあと思います。
わたしもはずかしながら誰の手をわずらわせることなく自力で育ち、誰にも迷惑をかけないで生きていると思っていた時期がずいぶんありました。本当は何回も困った事があって、何かしら誰かに助けてもらってやっとここまできたというのに、そのことに気づくこともなく、あたりまえのように助けてもらってきました。
だからって「おたがいさま」って単純に言えないところが難しいところです。
手のかかり方に格差があり過ぎるのがいけないのでしょうか。
わたしたちが大好きな平等と自由は両立できないのでしょうか。
みんな一人ひとり個性がありますから自由にしているだけで違いが出てきます。それがやがてさまざまな差になってあらわれます。差が出て困る人は「平等」が大事と言うだろうし、能力を自由に発揮して差をつけたいという人は「自由」がいいに決まっています。
うーん、ないものねだりなんでしょうか。
わたしも「不公平だ!」なんてぶーぶー言うこともありますが、余裕のある人が余裕のない人を助ければそれでいいように思います。余裕のある人は不公平だと怒るかもしれませんね……。ナマケモノが増えるかな。
一生懸命がんばって、やっと余裕ができたのに、助けるなんて損じゃないか! と思う人は、まだまだ余裕がないので助けなくていいのだと思います。
誰かを助けたいと自発的に思えるようになるのが本当の余裕だと思います。余裕は、財産や権力の大きさとはあまり関係ないところにあるような気がしています。たくさん稼いでいる人や裕福な人には余裕があると一概に言えないように思います。
人間の余裕というのはいったいどこにあってどうしたら生まれてくるのでしょう。
ふしぎです。
この頃よく聞くことですが、自分にできることをすればいい。ちょうどいい加減の無理しかしない。余裕はそういう地味なところに転がっているのかもしれないです。