社会性が乏しくても
mimiは検査で社会性が乏しいと言われた。不登校になったことを考えるともっともなことだと思うが、学校に行っていたときは、対人トラブルもほとんどなく、委員会活動や学校行事にも積極的だったので、当初はにわかに信じ難かった。
でも、幼く無邪気にふるまえた時期を過ぎると、やはり人との関わりが微妙に難しいというか、わからなくてとまどうことが増えていったようだ。
たとえば、店頭やトイレなど、順番に並んでいるのかいないのかわからないような場面では、どうすればいいのかわからなくて、いつまでも立ちつくしてしまうようなことがあった。おとなしい性格のおかげで、空気が読めなくて相手をおこらせるというようなことはなかったみたいだが、相手の反応が予測できなくて、とにかく不安で疲れるという。
小学校のころは落語が好きで、よくクラスメートの前で披露していたらしい。友達から「師匠」と呼ばれていた。中学生になってまもなくのレクレーションでも落語をやったと聞いた。そのときのみんなのようすはいったいどうだったのか。今思うとちょっと心配である。
女子生徒の間で、mimiはいじめられているといううわさがあったようだ。実際に複数のお母さんに耳打ちされた。それで何度か本人に確かめてみたこともあったが、本当のところはよくわからない。からかわれて傷つくことがあったかもしれないが、そんなことはきっと誰にも知られたくないだろうから今は知らんふりしている。
これぐらいの不器用さはごろごろしているかもしれない。みな苦い経験を幾度も積み重ね、苦労しながら社会生活を送っているのだろう。
その中でも、対処の仕方がまるでわからなくて、社会生活がまったく困難になってしまうような人がいることを想像できるだろうか。
何度同じようなことを経験しても、いつまでたってもただ混乱するばかりで、どうすればいいのかがまったくわからないままなのである。
通常の生活体験では身につかないので、こういうときはどうするかということを繰り返し学び訓練しなければならないのである。まさにmimiがそうなのだ。
わたしも今だに本当にわかっていないのか、確かめたくなることがしばしばある。それぐらいわかりにくい。
検査による診断に頼らないで、わたしは実生活での困難さで判断することをおすすめする。現実に社会生活において、わけのわからない困難を抱えてしまっていないだろうか。もしそうなら、方向違いの努力でへとへとになってしまう前に、もしかしたらわからないのかもしれないと考えてみてはどうだろう。
mimiはじゅうぶん賢い子だと思うのだが、何かといえば口癖のように「わからない」と言う。それが無気力というか、意欲に欠けるように見えて誤解しそうになることもあった。最近は赤ちゃんに教えるみたいに教えてくれてかまわないとまで言っている。
mimiのこれまでの得体の知れない体調不良を思うと「わからない」ことは、からだのどこかが痛むのと同じぐらいつらいことだったのだ。
生物多様性ではないけれど、いろんな人がいるということがあたりまえの社会になるといいなあと思う。